これは、夢だ。
単なる夢の、話だ。



―――泣いている。

だが、重すぎるこの腕では涙を拭ってやることすら出来ない。

―――泣いている。

その理由を、俺は、知っていた。

ある少年の話を思い出す。
自由にしてやろうとかごから逃がした小鳥が、数日後変わり果てた姿で彼の前に現れる話。
飼い慣らされた動物は、今更自然の中では生きていけないのだ、ということを知った、幼い時分。
何の本だったかはとうに忘れた。
どうして読んだのかも定かではない。
だが、

お前には、俺以外にも、いるだろう?












□■□












その頃、男子部屋は大騒ぎだった。

突然火力の強くなる暖炉。
ひとりでに揺れだすロッキングチェア。
誰も居ない筈なのに、ノックされる部屋の扉。
気付けば泥だらけの風呂場。

「みんな良くやるね…」

そのひとつひとつに、きちんと大仰ながらも付き合っている葉達を見ながら、リゼルグが呟いた。
呆れたため息と共に。

―――彼らだって、すべてが精霊の悪戯なんだと、わかっている筈なのに。

とん、とん。
その時、またしても部屋の扉が鳴った。

「…きっとまた、誰もいない」

リゼルグがそう言う。
だが、扉の横にいる蓮が息を吐き出すと、再びドアノブに手を伸ばす。
それを見て、

「だから誰もいないよ」
「…言われるまでもない」
「じゃ、どうして」

わずかに非難の色を強めるリゼルグ。
その目の前で、扉を開きながら蓮はあっさりと告げた。

「他にすることもなかろう」

ぽっかりと開いた真っ暗な廊下。
そこは言うまでもなく、やはり無人。
更に蓮は、先ほど同じように無人の廊下に出て、みごと金盥を食らった持ち霊に、無常にも命じる。

「…行け、馬孫」
『ぼ…ぼっちゃま…』
「行け」

再度命令されては、馬孫も敵わない。
仕方なく恐る恐る廊下に出て―――再び派手な音と共に、金盥との対面を果たす。

「……」

リゼルグは一部始終を見つめながら、どこかもどかしげに眉を寄せて。
ひとつまたため息をつくと、つかつかと扉に歩み寄った。
その行動に、蓮が訝しげに問う。

「…何処へ行く」
のところだよ。彼女は、何も知らない可能性が大きい。一人で不安がってるかもしれない」

そうでしょ? と相手を見つめる。
蓮は一瞬ぴくりと肩を揺らしたが―――すぐにそっぽを向いた。

「……好きにしろ」
「そうするよ」

すげなく答えると、リゼルグは部屋を出て行った。

『…ぼっちゃま。殿は』
「知らん。あいつがついているのだろう」
『し、しかし…』
「二度も言わせるな」

有無を言わさぬ主の口調に、やはり馬孫は渋々口を閉じた。












薄暗い廊下を、心なし足早に進むリゼルグ。
点々とついている照明がかえって心細い。

(……さっきは、ちょっと冷たくしちゃった、な…)

思い出すのは、各々が部屋に入るまでの、最後の記憶。
慌てて取り繕った笑顔では、きっと彼女は誤魔化せない。
逆に心配させてしまっているかもしれない。

その反省と謝罪も兼ねて――
リゼルグは、に会いに行くつもりだった。

だが。

「――あら…どうかなさって?」

あとひとつ角を曲がれば、彼女の部屋というところで。
その角から姿を現したのは、なんと家主であるおばあさんだった。
不思議そうな顔でリゼルグを見つめる。

「あ…」

思いがけない遭遇に、リゼルグも面食らった様子で立ち止まる。

「どうかなさったの? こんな夜更けに」
「い、いえ…」

この館は、悪戯好きの精霊で溢れている。
さっきそれを目の当たりにしたばかりだ。
この館の主人である、この老夫婦だって―――

不意に、おばあさんがにっこりと笑いかけた。

「…!」
「もしかして、向こうのお部屋の、お嬢さんに御用?」
「え、ええ。まあ…」

思いがけない人懐っこい笑顔に、戸惑ってしまう。

「そう…でも、あの、ごめんなさい。ちょうどさっき、私もお話してたんだけど…
 彼女、もう疲れてしまったみたいで、もう眠ってしまったの」

申し訳なさそうにおばあさんは言った。

「え、話って、何を…?」
「あらあら、女同士の話に興味がおあり?」
「いっいえ、そういうわけでは」

慌てて否定するリゼルグに、くすくすとおばあさんは笑い声をあげた。

「――あの」
「なあに?」
「昼間は…すみませんでした。せっかく申し出て下さったのに」

おばあさんは穏やかに首を横に振る。

「いいのよ。私も、ちょっと強引過ぎたから。だから、気にしないでちょうだいな」

そういうと、さあさあ戻りましょう、と優しく背を押された。
わざわざそれに逆らうことも出来ず、仕方なくリゼルグも廊下を引き返し始める。
そして、男子部屋の前まで来ると。

「……じゃあ、おやすみなさい。ゆっくり疲れをお取りになって」
「はい…おやすみなさい」



「…女の子には、優しくしなくちゃだめよ?」



「え…?」

ふと聞こえたおばあさんの言葉に、リゼルグは訊き返そうとしたが…
既におばあさんの姿は、廊下の向こうへと消えていってしまった。

(どういうことなんだろう…?)

小さな疑問を抱きながら。
リゼルグは、おばあさんの消えた闇を見つめた。












□■□












それぞれの思惑をよそに、また日は昇る。

翌朝。
鳥のさえずりに目を醒ましたホロホロは、大きな欠伸をしながら洗面台へ向かった。
目を擦りつつ行くと―――既にそこには、先客がいた。

「……おす、蓮」
「ああ」

その挨拶ともしれない会話を互いに交わし、ホロホロは顔を洗い始めた。
ひんやりと冷たい水が、眠気を残らず吹き飛ばしてくれるようだ。
蓮は既に一通りの身支度を済ませたのか、がちゃがちゃと隣で片づけをしていた。

ホロホロは濡れた顔をタオルで拭き、ぽつりと、言う。

「―――……お前、とどうしたんだよ」

一瞬、片付けの音が止んだ。
だがすぐに再開したところを見ると、少なくともその問いかけは予期していたらしい。
いつもと同じ、淡々とした答えが返ってくる。

「…別に、どうもならん」

そして、長居は無用とばかりに、くるりと背を向けて。

「っおい、蓮――」
「お前には関係なかろう」
「…っ…」

一方的に告げると、蓮はそのまますたすたと部屋へ戻ってしまった。
あとには、怪訝そうに佇むホロホロが残された。

「…どういう、ことだよ…」

だがその呟きも、ただ朝の静かな森へと消えていった。












「………」

馬鹿馬鹿しい。
あの態度ではまるで八つ当たりではないか。
ガキでもあるまいし。

朝日に染まる廊下を歩きながら、蓮は己に毒づいた。
心なし歩く速度が速まる。
その手に力が篭もったのは…気のせいでは、ない。

すべては己が決めたこと。
今更何を蒸し返すか。
心に荒波を立てたところで―――もうどうしようもない。

恐らく今朝の夢のせいだ。

奇妙な夢だった。
内容ははっきりとは思い出せない。
涙と、少年と、小鳥。
断片的にしか覚えていない。
だけど。

―――余り良い夢では、なかった。

目覚めてもしばらくは、そのざらつきは消えなかった。





だがそんな感情も、食堂に着いた途端吹き飛ぶことになる。










が―――いなくなったあ!?」



葉の叫びが家中に響き渡る。



こうして一日は、騒がしく幕を開けた。